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焼け焦げた街で~福岡大空襲の被害と加害~
2025.06.29

焼け焦げた街で~福岡大空襲の被害と加害~

今回の目撃者fは、

1945年6月19日。福岡市上空には、午後11時すぎからアメリカ軍のB29爆撃機が次々に飛来。

20日の午前1時ごろまで約2時間にわたり、1500トンを超える焼夷弾(しょういだん)が落とされました。

福博の街は焦土と化し、死者・行方不明者は合わせて1100人以上とされています。

福岡だけでなく日本各地を焼け野原にしたアメリカ軍の狙いは、日本国民の戦意を喪失させること。

戦後、生き残った福岡市民は、空襲によって、日本が戦争に勝つ見込みはないことを悟ったと話しています。

一方で、空襲で母親を失った男性は、その怒りから、捕虜となっていたアメリカ兵を処刑する執行役に志願しました。

語り継がれてきた福岡大空襲の“被害”。あまり語られることのなかった空襲直後の“加害”。

2つの視点を重ね合わせ、今を戦前にさせないためのメッセージを届けます。

焼け焦げた街で~福岡大空襲の被害と加害~
焼け焦げた街で~福岡大空襲の被害と加害~
福岡市博多区の演劇専用劇場「博多座」がある場所には、かつて、コンクリート造りの十五銀行・福岡支店がありました。

十五銀行のビルの地下は、市民にとって安全な場所。焼夷弾の雨が降ったあの夜も、多くの人たちが逃げ込みました。

しかし、火災の影響でシャッターが壊れ、灼熱の地獄の中、地下に閉じ込められた63人が命を落としました。
焼け焦げた街で~福岡大空襲の被害と加害~
当時8歳だった濱野ヱイ子さん(88)も、銀行の地下に逃げ込むつもりでしたが、途中で腰を抜かして近くの防空壕にとどまり、結果的に命を救われたといいます。

「遺体はマネキンのようでした」幼いころに見た惨劇は、今も胸を締め付け、自分の子どもや孫にも、語ることはできていません。
焼け焦げた街で~福岡大空襲の被害と加害~
陸軍の主計中尉だった冬至堅太郎さん(故人)は、福岡大空襲によって母・ウタさんの命を奪われました。

翌日、母の棺桶を作っていた時に遭遇したのは、捕虜となっていたアメリカ軍パイロットの処刑現場。冬至さんは怒りのまま執行役に志願し、上官の命令もあり、合わせて4人を殺害しました。

処刑は正式な手続きなしに進められたもので、終戦後、死刑判決を受けた冬至さん。後に減刑され、出所しました。
焼け焦げた街で~福岡大空襲の被害と加害~
FBSには、1981年に冬至さんがインタビューに応じた際の映像が残されています。そこで冬至さんは、こう語っていました。

「怖いのは、再び戦争が起きて同じ状況になったら、またやりかねないこと。自分自身を守れるように、自分自身を強くしないといけない」


目撃者f
2025年6月29日(日)深夜2時20分

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